英国外交官の見た幕末維新 mobiダウンロード

英国外交官の見た幕末維新

によって A.B. ミットフォード


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英国外交官の見た幕末維新 mobiダウンロード - 内容(「BOOK」データベースより) 幕末から維新にかけて英国外交官として在日した著者の貴重な回想記を宗訳。

英国外交官の見た幕末維新の詳細

本のタイトル : 英国外交官の見た幕末維新
作者 : A.B. ミットフォード
ISBN-10 : 4404012829
発売日 : 1985/07
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 25.29 (現在のサーバー速度は19.48 Mbpsです
以下は、英国外交官の見た幕末維新に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
著者の地位と英国接近の真意本書はアーネスト・サトウ氏の著作ほどは知られていないが、当時の母国ではミットフォード氏の方がよく知られていたようで、サトウ氏の直属の上司であり、両人とも仕事の上下関係を超えて非常に良い関係を維持したことを思えば、本書の重要性が察せられるかもしれない。「私(ミットフォード)は名目的には上級者であったので・・・(中略)・・・私が記録し報告した仕事の立案責任者は、すべて彼(サトウ)であった」(本書14頁)。日本の在外公館においても部下の仕事の功績を独り占めする書記官が意外に多いことを知っていれば、著者ミットフォード氏の部下を立てる姿勢にむしろその大物ぶりがうかがえる。この英国公使Parksパークスー>Mitfordミットフォードー>Satowサトウという序列を読書前に念頭に置いておけば、一層本書が興味深くなる。これは当時の英国外務省から見ても重要性の序列でもあり、”P.M.S.ライン”と仮に呼べる(当初サトウ氏は若く専門職員程度の低い地位だったのでP.M.ラインが初期の形で、幕府側もそれを理解、以下敬称略)。現地日本の詳細な情報は下働きのS(atow)からすべてM,Pへと上がって行くが、英国外務省側からの重要な指示はすべてがPからMを経由してSまで到達するとは限らない。この微妙かつ重要な情報の行き来に当時の英国の対日姿勢の真髄が隠されており、残念ながら本書だけではそれを知るには極めて不十分であるが、本書がないと推測すら不可能となってしまう。本書冒頭では部下サトウの功績を述べるともにやや唐突な形で長崎にいた商人グラバーについてサトウと同じく”大いなる協力者”としてわずかに触れている。外交官の発言についてとくに留意すべきことは、今も昔もむしろ書かれた内容ではなく、殆ど触れていない内容であり、長崎のグラバーについても読み手は注意しておく必要がある。英国の初期の日本進出は経済面では長崎港、政治外交面では横浜を中心に行われており、長崎港の背景には中国大陸の市場があったことを考えれば、尚更本書であえてさほど触れてはいない英国の経済的な方面での意図を探ることで読みが深くなる。英国は慈善事業をしに日本に来たわけでなく、常に「外国貿易に適した港を見つけたい」気持ちがあり(本書66頁)、多数ある港のうち、開国後どの港が日本との通商の発展に有利かを探りに来ていたのである。仏語を駆使できる英国貴族の重要性明治維新真っ最中の当時の日本について本書では次のような記述がある:「ある朝、公使館に行こうとして家を出ると、門の前の血の海に一人の武士の死体が転がっていた。それには筵(むしろ)が掛けてあったが、首はなくなっていた・・・その頃の江戸では、こうしたことは毎日のように起きていたのである」(92頁)、「武士たちが大小を差すのを許されている限り、狂信的な暴漢が一杯機嫌で外国人と見ると、刀を抜く危険が常に控えていた(200頁)。こんな動乱の危険な日本に貴族出のミットフォードを放り込んだ英国外務省の意図は、一つに彼が仏語を解するということにあり(パークス公使、サトウは仏語ができず)、英国は単独で動くよりも、政情が極めて不安定な赴任地では列強同士で動くことを優先していたからである。英国と同じく日本進出に強い関心(野望)がある仏側のロッシュ公使との英仏関係が一層こじれた場合、万が一の調整を恐らくミットフォードに期待したためと思われる。本書の冒頭からわかるように英国公使パークスと仏国公使ロッシュはすぐに嫉妬しあう犬猿の仲となっており、例によって英仏のヨーロッパの争いを当時の日本まで持ち込むのはどう見ても賢明ではなかったのである(「私(ミットフォード)は(仏人の)デュプレックス号の艦長のところに行って、今まで両公使館の間にあった嫉妬陰謀はいかにばかげていて、有害であったかを指摘した」(本書184頁))。本書及びサトウの著作でも明らかなように英仏蘭米等は日本開国について日本人が想像する以上に歩調をあわせており、各藩の志士達が情報交換するように欧米人も活発に情報交換する中、ミットフォードの仏語は共通語として不可欠だったのである。もう一つは英国は当時の砲艦外交の強い名残りもあり、「私の受けた命令は、公使と連絡をとるだけでなく、英国軍艦の寄港する機会をとらえて、本国の外務省へも直接報告を送ることであった」(182頁)。公使館活動に不可欠な本国との外交行嚢のやり取りも軍艦接岸時に彼によって行われたはずである。当時クーリエcourier担当者はまだ館には設置されておらず、使途自由な多額の機密費の受け取りについてもミットフォード以外ちょっと考えられない(注)(使途の最終責任はパークス公使?)。小金の取り扱いは平民の信頼できる者に、大金の取り扱いは貴族にというのが19世紀までの世界共通の認識であった。極東の地で、万が一、パークス公使が著しい不正・背信行為をした場合とミットフォードが同様なことをしたと仮定した場合、英国外務省が真剣に差し押さえ等の対抗処置ができる対象は本国に資産が何もない平民出・領事館出身のパークス公使でなく、貴族出のミットフォードであった。つまり、著者の存在はある意味上司のパークス公使よりも重要であり、外交に限らず英仏等の軍事面でも調整連絡役を期待されており(本書では仏人艦長との親交ぶりを誇示するかのように2度記述)、さらには身分的に低く、仏語をしゃべれず学歴でもやや遜色あるパークス公使のお目付け役であったかもしれないのである。大半の日本人には想像しにくいが、当時の英国にあって貴族出身ということは一昔前の東大法学部卒のキャリアに等しく、かつ仏語能力ありとなれば、ほぼオールマイティとなる。英国の対外政策は議会(+外務省)、貴族、財界人の三者が決定するが、当時の貴族社会出身者の発言力は侮れないどころか重要な分野に必ず存在し、極めて重要である。(注):本書に「我々はできるだけ節約して、ささやかな家計を切り詰めた」とあるが、外交官の質素な生活というのは概して見せかけであり、遠隔地で多額の公金を預かる人間は本省に対して贅沢をしていませんという姿勢がいつも必要である。私費を使えば、赴任先でも裕福な生活ができるし、また現地でそうしなければ品位を保てない。攘夷思想の源泉に触れる 本書は明治維新にかなり興味がある人でも、正直なところすらすらと読めるほど面白い本ではない。注釈がもう少し充実してあれば読みやすいかもしれないが、薄い本であるわりには大半の人にとって読む通すことが難しいかもしれない。ただアーネスト・サトウ著の「一外交官の見た明治維新」とあわせて組にして考えると本書自身からも途方もない情報量がもたらされる。ミットフォードには英国外務省から当然強い守秘義務が課せられ、その発言は時折かなり無味乾燥としたものになっている。従って本書に対しては英国の当時の隠された対日姿勢を読み、サトウの著作にはそれに加え開国前夜の現地日本の生々しい状況を読むという方針が正しいと言えるかもしれない。それでも19世紀風の”古めかしい”教養主義のおかげかサトウとは異なり、本書には日本の攘夷思想の根源まで立ち入った箇所がある:「攘夷思想は、一世紀ほど前に、愛国的な小冊子を著した伊勢のある僧侶の思想から生まれたもので、その本によれば、日本の子供たちは神の子孫であり」(169頁)。これは恐らく本居宣長を指しており(僧侶は医者の誤りか)、”愛国的な小冊子”とは「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」を指すのではないか。ミットフォードのこの言葉は天皇への謁見への途中で攘夷派の襲撃を受け、自らその犯人確保後の感想である。サトウであったら水戸派の攘夷思想を指摘するだろうし、水戸藩のことはそれなりに知っていたが、国学の最高峰の本居宣長まで触れている箇所はないようである。「馭戎慨言」は今の我々が読むと茫洋としたところがあり、”日本の子供たちは神の子孫”を思わせるようなことは確かに述べて、戎(や夷)を制御すべきとあるが、夷を払えとまでは主張しておらず、外国への攻撃的な文面は一切ない。ミットフォードが”日本の子供たち”という言い方をしたのは古代ギリシア人の自称ヘレネスを念頭においた反射的な反応で、悪意があるわけではない。いずれにせよ国学と水戸藩の水戸学が攘夷思想を形成したのは間違いないだろうが、開祖とも言える人々には暴力的な傾向はなく、純粋を追求すれば外から見て排他的になりやすい、それだけのことである。結局、後世の人々が宣長の権威を都合よく利用したのは明らかである。宣長の思想の深淵は日本人でも理解が困難であり、幅広い古典の素養と深い考察が繰り返し必要であり、宣長自身が後半生は源氏物語から毎日学んでいる最中であった。国学と並び、蘭学、和算の三つが近代日本の基礎となり、明治維新で突然新しい国が生まれたわけではなく、和歌を重んじた国学はとくに古代・中世を近代と連結した重大な役割を果たした。攘夷派の志士達は今から見れば一部が過激テロ分子であったとしても死の直前に辞世の句を読む行為からも分かるように歌により古代と繋がっていた(少なくともそうであろうと欲していた)。ただ古代を重んじる(国学由来の)攘夷派と中国の朱子学由来の水戸攘夷派には重大な違いがあったようで、前者の方が開国の流れという現実の前には挫折しやすく、後者の方が国家論を論じるだけに実学にやや近い柔軟な適応力をもっていた。日本人でも攘夷思想を古来の攘夷と唐風(からふう)攘夷の二つを区別せず、混同しているので外国人にそれらを識別しろと言っても無理である。本居宣長は近世において人々があまりに漢文・漢詩を尊び、中国風の影響が強かったために古(いにしえ)の道を求める過程で方法論的に漢意(からごころ)の徹底排除をやや大げさに主張したに過ぎない。幕末においては志士達によって、昭和においてはおもに陸軍によって宣長の思想が形式的に利用され、皇国史観として曲解され(注)、悪用されたのは悲しむべきことであった。(注):軍部及び当時の新聞雑誌は漢文調・漢詩調のリズムを使って昭和の国民を扇動したのであり、本居宣長の思想とはまさしく正反対のものであった。宣長によると漢語は古来の日本語ではなく、漢語・漢文由来の思考を完全に排したところに真の日本があった。開国への大衆の動向も感じとる著者のミットフォードは天皇と謁見するという高い地位にもかかわらず、当時の日本の大衆運動へのことも忘れていない。「大坂へ戻ると、町中が喜びと興奮で大騒ぎだった。これは伊勢神宮と書かれた紙のお札が最近、空から雨のように降ってきたという奇跡をたたえるためで・・・(中略)・・・何千人もの人々が幸せそうに、・・・「ええじゃないか!ええじゃないか!」と叫びながら踊っているのであった」(95頁)。さらに続けて「我々外国人は、日本人が古い日本の精神である大和魂にどれほど負うところが多いか、銘記すべきである。その精神の基礎は神道の伝説に由来する」としている。本書及びサトウの著作を読んでいるうちに多くの場合、志士達の争いは数十人からせいぜい百人前後に気づくが、当時の日本の人口が今の四分の1程度としても、あまりにこれは小規模であり、明治維新は結局各藩のサムライ同士の争いごとであったとわかる。人口の殆どが農民であったので当然かもしれない。重大ニュースを十分に正確に逐一知らされていない庶民は新しい時代の到来を雰囲気でしか共感できず、排他的な攘夷思想の実現よりも、「人々は外国貿易が自分たちに繁栄をもたらすことをはっきり見通していた」(同上箇所)わけで、ペリー提督来訪の眠れぬ不安から一転して幕府統治の終焉・開国を歓迎していたわけである。この一種の世直し運動の目的ははっきりしていないが、大政奉還を境にぴたりと止んだことを考えると関連は深いと言うべきである。サトウが当時の日本の薩長・幕府側の現実を細かく報告しているのに比べ、著者はエリート外交官らしく巨視的にだけ触れている記述が多く、ええじゃないか運動の寸評に見られるように人心の把握やそれへの配慮は薩長に限らず英国側にとっても重要であり、仏側にはみられない視点であった。仏のロッシュ公使は本書で見る限り、英国に先んじてすでに仏側は幕府の大きな信頼を得ていたこともあり、箱物と言える「造船所、築港、兵器廠など、すべてをフランス側で独占しようと遠大な計画を立てていた」(22頁)。仏側は幕府の崩壊などは露ほども思わず、薩長を無法者と見なし(実際乱暴なことも結構やっていた)、幕府一辺倒であったようだ。前の赴任地アルジェリアでもそうであったように、仏のロッシュ公使は日本でも結局足元の江戸よりもパリの方を見て仕事をしていた。優秀な人材を見つけ、費用を負担し、英国へ送るミットフォードとサトウは頻繁に一緒に動いているので、サトウの従者の野口も当然彼らと一緒に動く。従者というのは今風に言えば秘書、世話役、マネジャーのようなもので、外部の日本人による襲撃を動きも直前に察知することがあった。実際、琵琶湖そばの大津や静岡の掛川で野口のおかげでミットフォードやサトウ一行は何度も命拾いしている。この英国人二人がいくら日本語が上手と言っても、日本人同士の阿吽の呼吸、俗語・敬語・言葉の微妙さ・方言までを理解できるわけではなく、野口という賢く忠実で勇敢な従者がいなければ任務を遂行できなかっただろう。「野口というのは、会津の若い侍で、英語を学ぶために郷里を出て、・・・(中略)・・・野口は結局、1869年に私に付いてイギリスへ渡り、私は二年間この男のために学費を出してやった」(一外交官の見た明治維新、上211頁)。ここで”おやっ”と思うのは、サトウは公使館で一番低い地位で収入も低いにもかかわらず優秀な現地の日本人を母国へ送り出せたということと、個人の海外渡航が建前としては禁止されていたにもかかわらず(明治二年であったとしても一般人の渡航はそう簡単でない)、実際には個人の海外渡航がかなり緩和されてきていたことである。問題は禁止令よりも英国までの旅費等の問題であり、これも英国船などに載せて多くの場合、野口のように給仕等の雑務をやるいわば臨時の船員ということですませていたようである。野口だけではなく、一番著名な海外渡航者達はグラバーによって送り出された薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則や、長州藩の伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助等が存在している。赴任当初しばらくはお金に困っていたサトウでさえ英国へ野口を送り出すことができたので、資金潤沢な商人のグラバーにとって多数の日本の有為の人材を送り出すことは極めて容易であったはずであるし、実際それらの人材は倒幕運動において薩長と英国等の間で大きな役割を果たした。グラバーについては武器商人とレッテルを貼ってしまうと誤解されやすく、むしろ本書の39頁の訳注をそのまま引用した方が正確かもしれない:「1859年に来日し、長崎にグラバー商会を設立、諸藩のために銃砲、火薬、艦船などの輸入に当たった」。ここで言う艦船は現代風に置き換えれば航空機ほどの重要性を持ち、取り引き金額も巨額のものになるが、幕末の書物を狩猟していると結構あれやこれや多くの日本の艦船も列島周辺で動いており、幕末・明治初期の艦船図鑑・名簿がもしあれば、当時の巨額の資金の流れもわかるはずである。グラバーは薩長の志士達を海外渡航させるというだけでなく、薩長への英国からの資金提供という重大な役割を果たしている可能性も十分にある。艦船の売買には最初グラバー側が薩長側に巨額融資し、それを元に薩長が買い、返済が終わるまでしばらく船の所有権はグラバー側にあるという形もありえるし、巨額融資をどのように使うかは薩長側にもある程度の自由があったかもしれない。経済的支援や貿易について殆ど記載なし当時の藩のうち一番富裕なものは加賀藩(百十数万石)と薩摩藩(80万石前後)なので、開国後の通商活動の下地として幕府の許可を得て加賀藩へも行き、「加賀から大坂への冒険旅行」という第三章があるが、英国政府として日本へどのような経済的側面で働きかけをするかについては不思議なほど一切記載がない。当時の日本はあまりに貧しく、英国という大国の貿易相手になるかどうかも未知数であった。しかも物の売買ということは単に売り買いではなく、巨額になればなるほど双方に運転資金が必要となり、まして貿易となれば決済のため資金の一時的な貸し借りが双方に発生し、貿易を円滑にするには国家間では借款、信用状(これで融資を受けることも可能)、銀行の活動が活発でないときは相手先への直接融資が必要となる。こうしたことは一切触れずに、英国3人組のP.M.S.は外国貿易に適した港探しばかりを日本全土で行っており、どの藩にどの程度具体的に経済的な働きかけをするかということは完全沈黙である。勿論、英国からの融資の申し出が時期尚早であったり、安政の条約を天皇が承認する前に英国が動けないのはわかるが、公武合体から倒幕への動きを非常に鋭く知っていた当時の最強国の英国がお行儀良く中立の立場で取り澄ましていたとは考えられず、むしろ逆の可能性がある。「私(ミットフォード)が論争する際、難しかったのは、(日本の)国内問題に干渉するように思われる危険性であった」(本書195頁)。これは日本国内のキリスト教徒扱いについてのときの発言であるが、赴任して以来多くの分野において表向きは一貫してこの姿勢であったはずである。しかし、ミットフォード及びサトウが議論し、助言する相手は山内容堂、後藤象二郎、木戸孝允、井上馨、西郷隆盛などと錚々たる人物ばかりである。どのようにして英国が倒幕派寄りのことを隠して崩壊寸前の幕府とも一定の友好関係を持ちつつ、仏側にも知られずに薩長等への支援を密かに行えるかが英国側の機密事項であったに違いない。露骨に支援すれば内政介入になる上、幕府を支援する仏側とも衝突することになり、そのチャンネルは極秘中の極秘であったはずであり、文書に残されているかどうかさえも疑問である。サトウの著作の方が一層躍動感溢れるのは、一つに情報漏れでないかと思わせるほど英国側の倒幕派寄りの発言が鮮明に頻出しているからである。一方、本書ではむしろ倒幕派寄りの発言が極めて控えめである。倒幕運動の重大な契機となったものが薩英戦争の結果であり、これについてもミットフォード赴任の数年前の出来事といえ、不思議に本書に一切記述はなく、サトウがその著の前半において薩英戦争、長州との下関戦争についてだいぶ詳しく書いてあるのと比較するとなぜかという疑問が生じてくる。英国の薩摩藩への傾斜こそ明治維新の一つの要となったことを思うと、著者ミットフォードはそれについて黙秘を貫きたいようで、薩摩藩支援についての記載は一切なく、現代でも政府がよく言う「個別の件についての発言は控えさせて頂きます」の姿勢である。しかし、本書を繰り返し読むと手がかりはあり、本書後半で「太政官日誌」の中から当時の発足まもない新政府の布告を著者自身が次のように引用している:「諸藩が決まりに反して外国人から直接に借り入れの取り決めをする習慣があったが、今後、外国人から借金を望む藩は、外国局へ申請すべき旨の命令あり。これを許可するか否かは外国局の判断とする」(本書216頁)。”決まりに反して外国人から直接に借り入れる習慣”??・・・一番そんな”違法な”ことをしそうな藩はどこなのか?!またこの布告が新政府によってわざわざされたということは英国やその他の海外の国々から大なり小なり借り入れをしていた藩が以前から複数存在したということである。当時諸藩のすべてが大阪の商人に大なり小なりお金を借りており、大坂商人は幕府の下にあり、倒幕派はいつも資金に困っていたはずである。一方当時アヘン戦争後で世界で一番資金力が溢れ、有望な貸付先をいつも探している英国が急速に一番興味をもった藩はどこなのか。こうして英国ー薩摩藩のつながりが自然に浮上してくる(同時に藩の外国からの無断借り入れを具体的に一番知っていた幕府側の財政に強い人間は、恐らく勘定奉行・外国奉行の小栗忠順(おぐり ただまさ)であり、彼が斬殺された理由の一つとなったかもしれない。徳川埋蔵金の在り処を知っているのに自白しないから斬殺されたと言われているが、本当にそうであったら在り処を知っている人間を長く軟禁状態にすべきで、薩長等の新政府が血気にはやった下級武士達に殺させる必要はない。小栗は英国ー薩摩藩の裏の金の流れを知っていたのでないか)。薩英戦争の賠償金の行方「日本側の最初の砲撃に対して旗艦の応戦が遅れた(2時間)わけは、艦上にまだ賠償金が積んであったため、ドル箱の堆積が弾薬庫の戸を開ける邪魔になったからだという」(一外交官の見た明治維新(上)108頁)。英国本国は幕府からも薩摩からも生麦事件の賠償金を取れという指示で、幕府からとった巨額の賠償金を何と積んだまま薩摩湾に向かったのである。江戸には預けておく自国の銀行などはまだないので当然かもしれないが、当時の英国の軍艦もふくめ艦船が現金輸送船の役割を果たしていたこを我々は垣間見ることができる。この薩英戦争後、薩摩側からもさらに追加?の賠償金を英国はとったが、これらの賠償金がきちんと上海もしくはロンドンまで輸送されたかどうかはミットフォードは一切述べていない。ただし、幕府からの賠償金は薩摩側が借りた形になっており、これについてはサトウは「薩摩の人々が、この罰金を大君の在庫から借用したものだということは言って置くべきだろう。そして、その後、私はその金が返済されたということを聞いていないのである」(上記同書114頁)。つまり、薩摩藩は幕府が立て替えてくれた巨額の賠償金を”踏み倒した”のであり、サトウは巧妙な言い方をして実は後世の日本の人々ではなく、当時の英国政府に対して英国は薩長が実質中心となる新政府へ裏表あわせいろいろ資金供与をしたが100%薩摩藩を信じてはいけませんよと言っている可能性がある。万が一のときの逃げ道を残しておくのが役人の第一の心得である。当時諸藩の中でも一番軍事にも資金力にも富んでいた薩摩藩は琉球方面の密貿易(実際は幕府への申告なしの脱法的な自由貿易だが当時は厳禁されていた)で結構財をなしていたようであり、薩英戦争で負けたとはいえ(実際には勝ち負けがはっきりとついていなかった)、幕府が出した賠償金をそのまま自分達に(艦船・武器等を購入するために)融資として回してくれ程度のことを言う胆力が薩摩藩士達には十分にあった。攘夷を叫んでいた志士達には勿論極秘であろうが、倒幕派の藩の上層部だけは以前から開国の必要性を感じており、薩英戦争でそれが急速に明確化してきて、とくに薩摩藩が”敵側”からお金を借りることなどは極秘である限り全く問題なかった。そもそもアヘン戦争後で潤沢な資金を極東の地で持て余している英国は、むしろ最初から通商向けの港探しのついでに手ごろな融資先をも物色しており、戦争の勝ち負けと関係なく、お互いに自由貿易を国是とする!!英国と薩摩藩は融資面でも最良の組み合わせであったのである。幕府側からすれば、賠償金が”不正に”使われた、しかも英国から貸金としてグラバー経由で薩摩側に渡ったとすれば、幕府は軍事的にも資金的にも完全に打つ手がなくなったことになる(「大君は(分割払いとなっていた)賠償金の支払いを完遂しなかった」上記同書190頁)。仏側はこのような金融面での策略というのが非常に弱く、英国はインド植民地支配やシナの太平天国の乱、アヘン戦争で鍛えられ、老獪というべきか陰険というべきか相手国の政府側・反政府側双方への策略が極めて上手でもあり(その基本はdivide et imperaで、我が国の志士達の上層部も十分にわかっていた)、また上手にならなければならないのっぴきならない事情が英国側にあった。極東での初期オフショア市場の成立幕府からの分割金の一部とはいえ、巨額の賠償金を艦上に置くという荒っぽい行為は言うまでもなく艦内に手ごろな場所がすぐにはなかったことを意味するが、このお金は上海に行ったのだろうか、それとも船内か陸上のどこかに一時厳重に隠匿され、その後薩摩藩へ融資金として渡ったのだろうか?一番ありえない説が陸上長期隠匿であり、すでに巨額の賠償金を積荷としていることは積み込む前に洋銀(当時の国際通貨)の品質チェックの多数のシナ人達によってかなり広く知られていたのである(洋銀には偽物が混ざっていることがよくあったようだ)。上海までの船の行き来があったとしても台風その他で完全に安全というわけではないし、当時巨額の資金を積んでいるときに一番安全なのは動乱の陸地を避け、沿岸付近の海上であったという事実を今の我々は忘れている。軍艦=海上の金庫であり、海上での取り引き(いわば瀬取り)が一番秘密が外に漏れない。万が一嵐が来たときはすぐに(グラバーがいる長崎港のような)近くの港へ避難できる。19世紀頃までは巨額の取引は中国でも日本でも、現地通貨(紙幣はない)ではなく、銀(メキシコ銀)や金で行われており、日本の大判・小判がそのまま英国まで運び込まれたわけではない。インド植民地支配のときも同様で貿易の決済はすべて金・銀もしくは希少で積荷として小さくなる高価な物品で行われており(電信インフラが整備されるにつれ国際手形決済も恐らく増えた)、その頃まではインドー英国間の6ヶ月程度の航海で積荷の安全確保を何とかすることができた。それでも途中で遭難・強盗・船員反乱等のリスクは常にあった。極東方面で中国市場が大きくなり、アヘン戦争後でさらに極大化すると、もはや中国大陸と英国を金銀財宝を運ぶリスクは最大のものとなり、植民地支配はスペインのような伝統的な収奪方式及び仏蘭のような収奪・交易方式から脱皮して、新しい形態を模索する必要があったのである。相手国へ物を売るという行為は相手国から富を吸い上げる(収奪)することであって、収奪方式には武力を背景としたスペイン・ポルトガル型式と仏・蘭のように収奪・交易の両要素が混合したものがあったが、どちらも長く続けると(とくにスペイン・ポルトガル型式では)現地の相手国経済が痩せてくるという欠点があり、現地国に原始(民族)資本の蓄積の萌芽が生じなかった。インドーシナ植民地を通じた三角貿易、アヘン戦争等にとって膨大な資本蓄積をした英国にとって焦眉の急となったのは、当時電信のインフラさえない極東市場で安定した投資先となるような国を見つけることであった(電信は当時セイロンまでしか通じていなかったし、国際的な手形決済も当時は恐らくそこまでであったと思われる)。スペイン・仏・蘭等と異なり、地球上に広がり過ぎた英国は単に収奪・交易だけでなく、投資先を確保し、投資先の原始(民族)資本の蓄積を促し、それにより相手国の経済を発展させ、そこから富を持続的に得ることが一番賢明な方針であった。その相手国こそ日本であり、明治維新は日本-中国大陸での初期オフシェア市場の成立とともに考察すべきであり、自由貿易を唱道する英国と同じ方針の薩長は理想の組み合わせであり、大きな妨害となるのは貿易独占の幕府であった。しかし、当時の日本人に公的な見地から自由貿易の長所を理解させるのは至難の技であり、どうしてもグラバー等は日本の将来の人材を渡航させる必要があったのである(幸い彼らには海外渡航を志し、刑死した吉田松陰の弟子の伊藤博文もいた)。今でもそうであるが、外国の文化・法律というのは言葉や理屈では理解できない点が必ずあり、実際に現地で生活して初めて理解できることが結構多い。立証困難な仮説と圧倒的な状況証拠中国沿岸および日本沿岸に停泊する英国の艦船の中に一時保管されたまさしくオフショア(Offshore)資金から薩長、明治政府へ種々の形で融資が行われたという仮説を論証するには、むしろ民間の英国の銀行・商社等に残っている古い文書を探さなければならないために極めて難しいし、そうした文書が処分・紛失された可能性もある。しかし、状況証拠から明らかなのは英国が”裏表の”融資という形で当時の倒幕運動にかかわっていることであり、これらの融資は明治政府へ移行の過程で英国からの借款ということでかなり一本化された形になった(当初仏側が幕府へ融資した港湾・軍事設備へのお金は英国からの融資で明治政府がすべて借り替え、仏への借金はなくなった)。でなければ、次のサトウの記述に見られるように英国は維新後も貸し手として借款の金額を少しでも増やそうという真剣な試みはしなかっただろう。「大君は賠償金の支払いを完遂しはしなかったし、またこの問題は、維新後も絶えず天皇の政府とイギリス公使の間で憤激と悪感情のものとになっていた」(一外交官の見た明治維新、上199頁)。分かりやすく言えば、薩長に裏融資したお金は当然厳しく取り立てず(いわば英国側の”必要経費”)、旧幕府の英国への負債については一銭もまけないというというのが当時の英国の姿勢であったようだ。パークス公使、ミットフォード、サトウの3人組及びグラバーは深く意識して中国大陸での富の蓄積を融資の形で日本へ回しているという自覚はなかっただろうが、結果的に大きな目で見れば、英国による極東の初期オフショア市場の富の蓄積を日本へ投資する形になった。それは19世紀最大の事件の一つアヘン戦争によるもので、英国議会でも当時問題視され、議論されたように英国にその剰余金をもってくることは面倒な問題をもたらすことになり、オフショア市場においたままの方が非常に好都合であったのである(もともと伝統的に英国の銀行・商社は海外に資産を置くことを好む)。しかも当時の清は太平天国の乱の直後で、不安定極まりない状況で投資先どころではなかった。小さく貧しくても富国強兵で比較的意見がまとまっている日本の方がシナより先に発展する見込みがあり、投資先としては好都合だったのである。19世紀、米国元大統領ルーズベルトの祖母の家ばかりでなく、当時アヘン戦争から財をなした世界の富裕層は多数いたようである。逆に独立を失い、搾取されたシナ人の悲惨さを実際に現地で見聞し、おおいに発奮したのが高杉晋作である。日本人が古来仰いでいた漢民族が数世紀満州人により征服され清となり、その大国の清が英国等の外国勢に支配されている二重の痛々しい被支配構造を大陸で実感した高杉晋作が、外国に支配されないために見出した答が軍事力の必要性であった。英国側からの融資に問題があるわけではない”武器商人”のグラバーが多数維新の人材を海外渡航させたり、資金援助しただろうということで、近年彼ら全員を英国のスパイとしたりする作家や英国の全面的な資金援助でもって薩長は明治維新を完遂させたとする著作家がいるが、いずれも面白半分な取り上げ方が殆どであり、精緻な歴史資料の読み方や種々の批判主義的な見地から考察を試みようとはしていない。英国の資金の流入が薩長にあったことには私も賛成だが、興国の事業に巨額の費用がかかる以上どこかの国から借款を受けるのは当然の成り行きであり、倒幕運動の途中で英国(もしくはグラバー)から借り入れをしても何ら彼らの大義に傷がつくわけではない。今でも国レベルで借りたお金を全額返さないところもあることからわかるように英国側から深く信頼されたということで薩長の志士達はすでに立派な業績を残したと言うべきである。しかも英国の信用を背景とした場合、他の諸外国もうかつに日本に強引に外交・貿易交渉をするわけにはいかず、金融面だけでなく、外交的にも明治政府は有利な地位を最初から保持することができた。開国直後の欧米への岩倉使節団への欧米各国の好意的な歓迎はまさしくそれを示すものであり、その使節団を計画している時期と本書の著者のミットフォードの日本滞在の期間は不思議に重なりあっている。岩倉使節団は1871年12月出発し、それ以前に当然旅行の準備をしているはずであり、ミットフォードは1870年1月までの約3年間日本に勤務しているのである。ヴィクトリア女王にも謁見し、欧米の主要な重要人物にほぼすべて会うことができた使節団の影の立役者の一人としてミットフォードがいても全然おかしくない。彼は1870年の帰国後1年間の休暇が与えられ、暇な時期はTales of Old Japanの著作のためだけでなく、何らかの形で総勢107名という岩倉使節団にも相談役として協力したのではないだろうか。まだ日本の在外公館網が整備されていない段階で、諸外国のトップと会談したり、各国新聞社にあれこれ手配するというのは日本側の通訳者・翻訳者だけでは不十分であり、その方面に明るい専門家が不可欠であり、岩倉使節団の世界一周の1年以上の道中を英国外務省が支援してくれれば何ら困難はなかったことになる。実際この大使節団は途中盗難があっとしても上首尾に世界一周の視察任務を終えており、その後の日本へ甚大な影響を与えた。もし英国からの融資で問題があるとすれば、それは英国にあるのではなく、借りた日本側の重鎮達がその重要な明細をまだ存命中の明治期に昭和初期の次の世代に申し送りしなかったことではないだろうか。帝国海軍は英国海軍の指導が継続して不可欠であったし、日露戦争を引き合いに出すまでもなく、艦船は巨額資金が常に必要なのでまだ英米からの借款の重要性を理解していたようだが、ドイツ寄りに傾いた陸軍は英国の資金のおかげで開国できたことをすっかり忘れ、あたかも日本人だけで明治維新を完遂させたと思い込んだのである。あるいはそのように国民に思い込ませたかったし、サトウの著作を数十年も発禁にする理由が十分にあった。さらに陸軍は中国大陸に深入りするという大きな過ちを犯してしまった。当時でさえ国家間の貿易は英米との取り引きが大部分なのに、海洋国家の英米と袂を分かち、中国・ドイツと大陸寄りに傾き、日本本来の繁栄の道とは著しく遠のくことになってしまった。本来はもう少し饒舌のようで、人間味溢れる著者であるが・・・英国公使館の動きと平行してグラバーの暗躍というべき活動があったとしたら、もう少し証拠が残っていてもよいようだが、グラバーが海外渡航させた志士達の中には渡航わずか半年前に英国公使館を焼き討ちしたという今風に言えばテロ行為を働いた伊藤博文、井上馨(かおる)がおり、そのような人々と英国外交官が挨拶以外、万が一直接的な接触があった場合、英国外務省を即刻首になっただろうし、その前に幕府によってpersona non grata(ペルソナノングラータ)となってしまっただろう。そもそもキャリア職は、危ない仕事は外部の人間もしくは地位の低い部下に任せることが世界共通しており、ミットフォードが将来新政府の重鎮になるとはいえ当時の倒幕派の下級武士達とわずかでも生々しい関係を持つのは絶対に好ましくなく、そこは当初からすべて部下のサトウに任せた形になっていた。結構上手な役割分担である。この役割分担前(著者の赴任前)、サトウは日本語が達者なうえ現地優先なだけにかなり独断でグラバーと薩長の仲介か何かしらに積極的に動いた可能性が高い。これがむしろやり過ぎと見なされ、幕府支援の仏側と重大な衝突の危険ありと英国外務省内部で一部指摘され、仏語堪能・社交的なミットフォードが日本へ派遣されてきたのだろう。この線に沿うと、いわば彼は幕府ばかりか仏との衝突という危うい事態のまとめ役でもあったわけで、本書で薩英戦争その後に一切触れていないのも、その時期に当時の英国側の一番大きな賭けが隠されていたとみなせる。いずれにせよグラバーを通じ、薩長・土佐が必要とする艦船や大量の武器の巨額の裏取引をしたとなると、尚更ミットフォードが極力関知しない形が必要であり、パークス公使、ミットフォードとクラバーのつながりはお互い文書で残さず、口頭で済ませた方が無難であったと想像される。英国人は強者が忍び足で歩くことをよく知っているし、機密事項ついては言っていることと時として逆のことをやり、わりと陰険と思えるほど事を運ぶことが上手な人達である。部外者から見ると二枚舌、三枚舌と言われる由縁である。日本の外務省では局長を目指す一部のエリート以外、世界を周遊するように複数の国々に赴任する外交官が結構多く、そうした人達は自嘲気味に自分達のことを(地球を回る)人工衛星と呼んでいる。パークス公使、サトウはどちらかというとそうした部類になりかけたが、シナ語、日本語の知識が評価されて晩年さらに出世し、極東に戻れたのは本人達にとっても日本にとっても幸いであった。日英同盟、日露戦争の勝利と日本の輝かしい国際舞台へのデビューがその後続いたのである。本書の著者ミットフォードは明らかにキャリア職で、幅広い教養と均衡の取れた判断力、歴史的な思考力は大変魅力的であり、高級官僚特有の守秘義務の枠があるために本書でそうした彼の魅力を感じ取れる箇所が少ないのは残念ながらやむおえないが、以上のように幕末の日本及びシナ大陸方面までなるべく広く見ると彼の功績の大きさが非常にはっきりしてくる。

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